マンションの階段を一段一段ゆっくり確かめながら降りる。共用部分の電灯は、チカッチカッと不規則に点滅している。剥げかけた壁のペンキは、神話上の動物を連想させ、黒いスプレーの落書きがそれを助長させていた。一階に辿り着くと、エレベーターホールの掲示板に、浄水槽の点検を知らせる文書、自治会だか何だかの清掃のお知らせ、フリーマーケット募集の紙、放置自転車撤去の警告、ゴミ収集日の注意書、それぞれがそれぞれのことを主張しており、僕は、外国の文書を読んでいる錯覚に陥った。『知覚の崩壊』と僕は思った。_マンションの裏口から通りへ出ると、すぐそこには踏切がある。深夜の踏切は、喜劇役者のような明るいライトに照らされていた。それは、とりあえず“しつらえた”というような不自然な明るさだった。毛穴のひとつひとつまで見渡せそうだった。僕はやはり、イソノさん(猫)のことを話すべきだと思い、山中さん(猫)の寝床へ訪れることにした。角をひとつ、ふたつと曲がり、例の、住んでいるか住んでいないか分からない民家の軒下を目指した。今夜は月が出ていない。ふとそう思った。最後の角を曲がり、僕は山中さん(猫)の寝床へと辿り着いた。…しかしそこには、雨の日の屋上のような、朽ち果ててボロボロになった傘と、先日立て掛けた錆び付いたトタン板以外何もなかった。ブランケットや、食事の容れ物さえも残っていなかった。“何も残っていなかった”のだ。僕は不安に駆られ、何度も山中さん(猫)の名を呼んだ。だが、無情にもその声は、静寂の中に消えていった。(続く)
マンションの階段を一段一段ゆっくり確かめながら降りる。共用部分の電灯は、チカッチカッと不規則に点滅している。剥げかけた壁のペンキは、神話上の動物を連想させ、黒いスプレーの落書きがそれを助長させていた。一階に辿り着くと、エレベーターホールの掲示板に、浄水槽の点検を知らせる文書、自治会だか何だかの清掃のお知らせ、フリーマーケット募集の紙、放置自転車撤去の警告、ゴミ収集日の注意書、それぞれがそれぞれのことを主張しており、僕は、外国の文書を読んでいる錯覚に陥った。『知覚の崩壊』と僕は思った。_マンションの裏口から通りへ出ると、すぐそこには踏切がある。深夜の踏切は、喜劇役者のような明るいライトに照らされていた。それは、とりあえず“しつらえた”というような不自然な明るさだった。毛穴のひとつひとつまで見渡せそうだった。僕はやはり、イソノさん(猫)のことを話すべきだと思い、山中さん(猫)の寝床へ訪れることにした。角をひとつ、ふたつと曲がり、例の、住んでいるか住んでいないか分からない民家の軒下を目指した。今夜は月が出ていない。ふとそう思った。最後の角を曲がり、僕は山中さん(猫)の寝床へと辿り着いた。…しかしそこには、雨の日の屋上のような、朽ち果ててボロボロになった傘と、先日立て掛けた錆び付いたトタン板以外何もなかった。ブランケットや、食事の容れ物さえも残っていなかった。“何も残っていなかった”のだ。僕は不安に駆られ、何度も山中さん(猫)の名を呼んだ。だが、無情にもその声は、静寂の中に消えていった。(続く)